ホモソにはホモソを

複数人で話しているとき、そのうち何人かだけが愉快そうに笑っていて、笑えない少数派に自分が属していると気づく時、あー今めちゃくちゃ不利だ、と感じる。言葉を向けられている友人は私の目の前に座っており、私よりも笑っていない。それで私はどうするかというと、その場では彼女と私しか共有し得ない話題を持ち出して、小さくて閉鎖的な輪を作る。外側に締め出されたひとたちは困ったようにして、諦めてかれらだけで話し始める。ざまあみろ、と思いながら、これが最善策とは決して思えない。相手の結束を無効化するような石を投げ込まないと、友人どうしで集まって楽しく過ごすはずの場のためにならない。

というか今思うと、同じメンバーで逆のパターンも全然ある。私たちが先にホモソ(というかミニマムなオタクコミュニティ)に閉じこもってしまって、まわりを困らす経験もあれこれ思い当たる節がある。他の人にはわからない、相手と私だけの会話コードを用いる、見せびらかす気持ちよさ、みたいなものを私も知っている。何となく自分たちの方が断然無害だと思ってきたけど、単に自覚がなかっただけかもしれないと思う。

11/24(回想)

幼稚園の年長くらいから18歳まで、女しかいない家に住んでいた。家にいる年上の女たちは「女らしく髪を伸ばしなさい」とか「股を開いて座るな」とか「胡坐をかくな」とか「汚い言葉遣いをするな」とか、いちいち私に注意したけど、「女であるから」という理由で実際に何かを強制したことはなかったと思う。強いて言うなら、日が暮れきった後にひとりで出歩くことはほとんど禁止されていて、高校に入っても歯医者や眼医者や美容室にいちいちついて来た。これらはどちらかというと過保護や過干渉に由縁するものだという気がする(元をたどれば私が女であることと決して無関係ではないだろうけど)。

彼女たちは他人からどう見られているかをすごく気にして、女性としての規範を深く内面化していた。一方、家の中では当たり前のようにそれを破ったし、ほとんどの時間を家の中で過ごしたから、結局実践するより破棄するときのほうが多かった。だらけた姿勢でテレビを見たり、休日に着替えをしなかったり、部屋のなかも散らかしっぱなしだった。口では「こんなのははしたない、だらしない」と言いながら。子どもに対しても同様で、私や妹はあの家でほとんど火を使ったことがないし、アイロンもろくにかけたことがない。手伝っていた家事なんか、朝にポストから新聞を取ってくるくらいのものだった。「なんにも手伝いやしないんだからアンタたちは」と冗談交じりになじられて、「じゃあやるよ」と答えたら「余計に時間がかかるからいい」と断られるのが日常だった。特にうちの母は「子どもに不自由をさせてはいけない」「不満足を覚えさせたくない」と強く思っていて、私は彼女がさしかける傘の下でろくに働きもせず、ものを考えず、決して強いられないと知っている「~しなさい」を適当に聞き流しながら、泰然たる十数年間を過ごした。

年上の女たちの考え方は私にとっていささか窮屈で、その点ばかりに目が行って反発を覚えたし、毎日のように文句を言った。が、生活は実のところおおらかでだらしなく、私はその恩恵に充分すぎるほどあずかっていたと思う。矛盾だらけのあの家のありようが、私にも大きく影響した。自分の下宿に他人を招くのが長らく苦手だったこと、そのくせひとの家でくつろぐのが大好きなこと。

私は家を出たあとにも色んなものを目にして、耳にして、自明だと思っていた幾つかの規範を不要に感じて捨て去った。現在の境遇や人間関係が手伝って、女性性との付き合い方について考え込むような出来事はしばらく起こっていない。前よりもっとずっと楽ちんだ。そのうえで、自分が住んでいた家のことをなるべく正確に思い出して、私はあの家に今も暮らしている年上の女たちが、日の光の下で安心してだらしなく過ごせる世の中であってほしいと思う。年上の女たちは私の外見や外での振る舞いをみて「好き勝手にやりすぎだ」とか、「もっと女の子らしくしなさい」ということがある。どうやら本気で言っているらしいのだ。私の装いや振る舞いなんか、彼女たちには関係ないのに。また、家の中では「女らしさ」こそ意識せず振舞えたけど、年上の女たちの中にある「母親らしさ」はもっと深く根を張っていて、私もそれを利用して、当然だと思っていた。私たちはもっと楽になれるはずなのだ。建前からも理想像からもどこぞの川辺の草むらに敷いたブルーシートで、あの家にいた女四人で寝転がれるような世の中であればいいなあと思う。そういうあまりに幼稚な願いを、私のフェミニズムの入口とする。

7/20

バイトにうつつを抜かしていたら七月も後半で泣いている! 八月半ばまでに先生にレジュメを持って行って相談したいと思う。どんどん先送りにしてしまう、怖い。

最近やっていたこととしては、『冥途』のテキストをひたすら文字起こししながら、最初のほうから精読していた。色色気づきが多い。「牛」が反復して登場し、「私」とのアナロジーが示唆されること。あと昨日「短夜」を読んでいたのだが、「私」がどうして狐のいたずらを暴こうとしたのか、その経緯が描かれない上、狐が化ける所を見たのが「私」にとどまり他者の目が入らないので、もしかしたらそもそも「私」という人物がかなり信用ならないのではないか、とか考えた。西井弥生子氏の研究動向まとめを読んでいたら、まだ読めて居ない先行研究がかなりあるなという気がしたので、もう少し狩りに行く。

写生文とかその辺のことを集めただけでほったらかしにしているのでそこも夏の内にやらないといけない。

テキスト分析ってどうやったらいいのか結局よく分かっとらんな…

6/24

三つほど新しい論文をコピーしたあと、内田道雄・酒井英行両氏の単行本を読んでまとめた。純粋な研究論文という感じではなく批評的な言説も含むので、それぞれにどれくらい引用する価値があるのか、みたいな頭の働かせ方をしてぐにゃぐにゃになるが、そうやって通読するのをサボって、ここは美味しそうだから食べるけどここは栄養なさそうだから食べない、みたいなことしてると結局全体像がつかめなくて、よく分からないまま捨て置くことになるのは去年でわかりすぎるくらいわかった。作家論ときくとすぐに批判的な目を向けてしまうけど、そうして鋭い読みまですっ飛ばしてしまってはいけない。

6/22

マイクロソフトアカウントの更新をした。日本語学研究事典は平仮名と片仮名とを読んだ。文学史はまずwikipediaで流れをさらってから岩波の講座本を読むとよさそうだなという気がしている。卒論、書きたくない。もう一年かけてもこんなもん、みたいになるのがこわくて書き出せない。クソ。

6/19

2週間卒論に関することをやらなかった、そんなはずはと思うが事実である。怖い!

真杉秀樹の本から「『冥途』と『夢十夜』:そのテクスト分析」を読んだ。以前は使用語彙や物語展開の共通点を指摘するにとどまり説得力に欠ける研究だと思って閑却していたがとんでもない。「百閒においてこの「昔の事」は、話者自身の過去、未生以前に限定されるものではなく、その領野には話者にまつわる血縁、更にそれ以上に広い見知らぬ他者をも抱合した気味あいが濃厚である」この辺りなど、主観的ではあるがすごく重要な指摘であると思う。示唆されるものの明示されない「私」の過去についてその正体を暴こうとすること、例えば百閒の年譜に何らかの具体的事件を見出そうとすることにあまり意味はない。去年ためた先行研究を読みなおして、必要とみられる部分をいちいち要約したほうがいい。面倒くさい。

院試のことも記録する。今日は音韻史をちょっとだけやった。口蓋化とか開合とか連声とか、聞いたことあるけど説明はできない単語をいちいち調べなくてはいけなくて面倒くさい。面倒くさいことが多すぎる。勉強好きじゃない。本だけ読んで感心して即座に忘れたい。大学院もきっと向いてない。色々思う所はあるが現状については進捗の生み方をまるきり忘れて面白いところに到達するイメージが湧かないといった方が正確かもしれない。院に行った方が当分都合がいいので多分今は勉強した方がいい。おりゃおりゃ!

 

6/9

『子規・虚子・碧梧桐』読み始めた。二章の途中まで。事実を書くための文体で幻想を書くというところをもっと掘り下げられそうな気がするがわからない。子規の幻想的小品文は正直言及するまでにいたらないという勘。もっと直接的なところから実際に書き始めた方が絶対にいい。父から電話でプレッシャー。うるせえ!